+++ 天下の奇祭 +++

県重要無形民俗文化財

左義長は「どんど」とも申して、正月の門松を焼き、歳神様を常世の国へ送り返す為の
民間の神事でもあり、また古来朝廷では清涼殿の庭に青竹を束ね、
扇子や短冊を結び付け陰陽師が謡い囃してこれを燃やし、祝い、
また豊作を占ったりしたものである。

今尾の左義長祭は、いつ頃から始められたかは明らかでないが、
境外社、秋葉神社の創建以前からのことで、現存する旧記録によれば、
明和四年亥正月(1767年)秋葉神社創建を尾州藩社寺方役所へ願い出、
翌春正月認可を得、秋葉堂並びに諸人参詣所も
滞りなく完成を見たことを記録しているのである。かくして、
左義長火祭りが、今尾の春の祭りとして年々盛んになって行った。

降って安政五年(1858)九代竹腰兵部少輔正美公の時、諸事万端倹約令により
左義長を差止めたところ、その年また大火が起こり、秋葉神社付近で火が止まったので
再び左義長が許されて、火難災難厄除けの祭りとして再興。
今尾村御用会日記に、領主十代伊予守正旧公も見物に
出かけられたことを記録している。

左義長は一週間前ぐらいから三里四方の町村の崇敬者から奉納されるものを集め、
祭り前日早朝から高さ6メートル、周囲6メートル程の鼓形をしたものが、
45センチ位の大竹の根元を四方に割って一の輪に結びつけ心竹とし、それに二の輪、
三の輪と積み重ね、全部竹を以って厳重に結び固め、この中に薪をつめ、
丸太の棒が2本通され、この輪棒に枠が組まれ、さらに割竹を以って前後に引き合い
倒れないようにする。腹帯、飾りさし、腰みの等で作り上げ、それに前年の
神宮大麻や、今尾神社、秋葉神社の神札を結び付け、正面には海老の飾り物を
取り付け、日の丸や五色の旗、書初めの和合楽、自福円満楽、家内長久と
大書した旗を立て親みこしと子みこしの一対が各町内ごとに
作り上げられる。重さ約2トンあると言う。


若衆の着る長襦袢や白足袋は毎年町内ごとに新しく揃いの物がつくられ、
中年の者が各々化粧をこらし道化役をつとめ、主としてこれらの者が、拍子木や笛
鉦を打ち鳴らし掛け声も勇ましく、先導をして境内につり込むのである。
祭典は午前8時から本社の今尾神社で今年の豊年を祈り、
無病息災家内安全を祈る為、あらゆる災難が焼き払われる様にと左義長火祭奉告の
大祭が厳粛に執行され、続いて宮司以下参列者は、御旅所の秋葉神社の方に
移り、仝様に左義長祭り鎮火祭が執行され、各町総代は各々町内当屋に帰り
御神酒ひろめと申して、御日待祭りの会食を始める。

やがて午後一時ごろには、地元の町内を真っ先に左義長が境内につりこまれると
宮司の手から神前の忌火が氏子総代の介添えによって、裃姿に威儀を
正した年番代表の手にもつ、とりつぎ藁にうつされる。
まちかまえる若衆は手に手に藁で火を受け左義長にうつすと、
千本近い青竹から火炎は天を焦がさんばかり、ポンポンと爆竹の音が
神域一杯にこだまして祭りは最高潮となり、火の粉の中を駈け回る光景は勇壮極まりない。
七分通り燃えたところで、その年の恵方の方へ倒しその倒れ方によって吉凶を占う。

その後きれいに灰除けをすると待ち構えた二十余町の青竹御輿が次から次へと繰り込み、
左義長焼きを午後六時頃まで勇壮な火の舞う特殊神事が続くのである。
その後参拝者は、それぞれ燃え残りの竹を持ち帰り屋根にあげ、
火難、落雷除けの守りとし、また夜になれば各町内がそれぞれ寄り集まって
秋葉神社に参拝し残り火で餅を焼き、これを食すれば病魔除けになると言って
餅を焼く人は夜遅くまで絶えない。

(資料提供 今尾神社)







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